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    7/12/2009

    アマゾン日本人移民発祥の地トメアスーから・・・・・・・・

     
     
    『トメアスー農協創立60年史発刊』
     
    昨年、8月に手がけた農協60年史、
    ついに日の目を見た。
     
    戦後移民の二世による理事会の要請を受け、
    10か月かけて、どうにか発刊にこぎつけた。
     
    ベレンからトメアスーへの道のり210KMを
    バスで通うこと16回。
    出来上がった小冊子を手にしたとき、
    達成感がじわじわわいてきた。
     
    過去、80年のトメアスー移民史の中で、
    農協の存在は、常にトメアスー村の中心的存在であった。
     
    1931年の野菜組合に始まって、今年は78年。
    ブラジルの法律に基づいて、
    公認組合となったのが1949年。60周年になる。
     
    アマゾン日本人移民80周年を記念して、
    編纂されたのが、今回手がけた小冊子だ。
    85ページの中に、
    CAMTA(トメアスー農協)の歴史が詰まっている。
     
    「我々の子孫にこの歴史を伝えたい!」
    との強い希望と要請を受け
    いま、ポ語にも翻訳されている。
     
    8月中には、ポ語版も発刊される予定。
    なにはともあれ、何回も取り上げた記念史
    肩の荷がとれて、ほっとしている。
     
     
     
    6/5/2009

    トメアスー農協の出荷場の建物の話!

     
    『木造軸組工法?』
     
    先週、サンパウロの邦字紙関係の方と、
    歓談する機会があった。
     
    席上、入植80周年を迎えるトメアスー植民地の、
    トメアスー総合農業協同組合の、
    集荷場兼倉庫の話がでた。
     
    「倉庫の建築素晴らしいですね。なんと言う工法なのだろう?
    「柱がなくて、空間を広く使っている。」などなど、
    兄や知人に聞いて見たが、建築を仕切った棟梁の
    名前や建築年はわかったが、
    工法の名前は誰も知らない。
     
    インターネットで探したら、下記の記事が見つかった。
    私の検索のキーワードは、
    「柱のない空間、梁で支える建築方法」だった。
    以下、その検索結果です。
    参考になるかどうか?
    ご存知の方は教えてください。
     

    小屋組のチェックポイント
     小屋組とは梁(はり)、桁(けた)、母屋(もや)、垂木(たるき)など、天井面と屋根面の間にある骨組みのことです。

    そして小屋組は屋根の自重や屋根が受ける風圧や積雪などの外力を、壁や柱に伝える役割をもっています。
     小屋組は、和小屋(わごや)と洋小屋(ようごや)に大別できます。洋小屋とは主に洋風建築に用いられ、梁や束や方杖(ほうづえ)などを用い、

    トラスと呼ばれるいくつもの三角形を形成する小屋です。

    和小屋とは洋風建築以前の古来より用いられていた小屋です。
     通常住宅などの小規模の建物には和小屋が用いられています。

    和小屋は、梁の上に小屋束を直立させ、その上に棟木(むなぎ)や母屋を載せます。

    それに垂木を渡して屋根ができます。

    <追伸> 

    6月9日、機会があったので許可を得て、

    くだんの倉庫を撮影してきました。

     

     
     
     
     
    5/31/2009

    サンパウロの邦字紙ニッケイ新聞社の・・・・・・!

     
    『百年目の肖像』
     
    サンパウロの邦字紙ニッケイ新聞社が
    この度、「百周年の肖像」と題する、
    ブラジル日本人移民100周年を記念して、
    ブラジル各地で開催された、
    行事を写真でまとめた。
     
    100周年を終えた、日系社会、
    「次の百年戦略のために
    -日系社会とは何か-
     
    ニッケイ新聞社の編集長の連載は見事だ!
    第一部 世界史の視点から
    移民を掘り下げ、ブラジル移民に繋げる。
    これからの日系社会はどうあるべきか?
    忌憚ない意見を聞かせてほしい。
     
    私も移り住んで52年、
    その意味を自分に問いかけている。
    動機は、「農村、2.3男対策(間引き)だった。」
    海外雄飛に夢をかけて、アマゾンに移住した。
    アマゾンの様に心を広く持って、
    余生を暮らしてほしいとは、
    日本に残された家族の願いでもある。
    「間引きだった」とは、思わないでほしい。
    あくまでも、海外雄飛というロマンにかけた、
    男たちであってほしいというのが、
    残った家族の総意なのである。
     
    残り少ない人生、動機にとらわれずに、
    今を楽しく有意義に暮らしましょう!
     
    地球の反対側で、
    我々を見守ってくれた、兄弟、姉妹への
    ささやかなお礼の言葉である。
     
    5/30/2009

    アマゾン移住発祥の地トメアスー

     
     
    『トメアスー70年史・編纂10年の労作
     
    アマゾンにおける日本人移住の嚆矢であるトメアスー移住地の
    歴史をまとめた
    『アマゾンの自然と調和して トメアスー開拓70周年記念誌
    (トメアスー文化農業振興協会編纂)が
    今年2月に発行された。282頁。
     
    70周年祭で実施された記念事業の写真、
    1929年の入植から
    戦後移住までの歴史を追った
    「トメアスー植民地沿革史」、
    組合や文協の活動を事業報告から読む
    「日系団体の軌跡」、
    日本語教育やアマゾニア十字路の病院の足跡に触れる
    「教育と保健衛生」、婦人部や俳句、野球、相撲など
    が網羅されている。(ニッケイ新聞より転載)
     
    80周年を迎えて、ようやく発行されたが、
    トメアスーの歴史を知るには
    必読の一冊だ!
     
     
    5/6/2009

    アマゾン日本人移民80周年記念シリーズ! 01

     
    『トメアスーから始まったアマゾン移住』
     
     
    今年、2009年は、アマゾン移住80周年を迎えます。
     
    『この記念すべき年に、トメアスー総合農業協同組合は、
    公認組合創立60周年を迎えます。
    ブラジル人でさえ知らなっかったこのトメアスーに入植し、
    忍耐力、闘争心及び共同精神を持って組合を設立し
    共同の力で開拓に携わった移民の記録を残しておきたい。
     
    我々の祖先が残した誇りや粘り強さ、そして今を築いた
    歴史的遺産は永遠に記憶されるべきとの考えで、
    将来においても我々の子孫が感謝の気持ちを忘れないよう
    ポルトガル語に翻訳してこの事実をを伝えます。』
     
    とは、農協60年史を企画した理事会の発刊のことばである。
    トメアスー植民地の80周年、
    トメアスー農協の公認創立60周年、
    そしてアマゾンに組合精神を導入して78周年、
    その背景を写真でつづることにします。
     
     
     
    3/18/2009

    二つの故郷!

     
    『私には二つの故郷がある!』
     
    どなたにも幾つかの忘れられない故郷があるだろう
    私にも二つの故郷がある。
     
    生まれてから満20歳まで住んでいたのが、
    鹿児島県伊佐市大口山野石井だ!
    旧山野線を水俣に向かう途中の集落。
    旧大口駅を基点にすると―山野駅―西山野駅―布計駅!
    西山野駅と布計駅の中間にある村落が、
    我が生まれ故郷だ!
     
    いしいだよりⅡ、故郷の機関紙128号によると、
    総人口202人、世帯数79戸、
    男88人、女114人(20年12月31日現在)とある。
    この数字がどんなことを伝えているのか、
    アマゾンの私には分からない。
     
    さて、第二の故郷は、
    ブラジル国パラー州ベレン市である。
    人口は約160万人。
    国勢調査があっても正確な数字が出ないのが
    ブラジル!
    日系人は2000人位かな?
     
    アップした写真の河の向こうにあるのが、
    私が住んでいるベレン市だ!
    アマゾンの入り口、すなわち、玄関の街です。
    1957年に移住した頃は、たった、一個しかなかった
    高層建物も今では、たけのこ状態!
    半世紀の時の流れは、
    すばらしい発展を生みました。
     
    移住当時は、
    薪をたいて走る蒸気機関車もありました。
    今では線路もはずされて、
    自動車のみです。
     
    写真で見ると生まれ故郷の我が家は、
    みすぼらしい!
    そこで命を貰って今がある。
    人生いろいろですね。
     
    <故郷は 桜の季節 ここは雨季>
     
    毎日の雨はうんざりです!
     
     
     
    1/7/2009

    記憶・・・!

     
    『第二次世界大戦中のトメアスーは地獄ではなかった!』
     
    一九四一年八月十五日、日本軍の
    真珠湾攻撃により『太平洋戦争』が勃発。翌年、
    ブラジル政府は日本との国交を断絶、
    移民は突如、敵地の中に放り出されてしまった。
    日本人移民は棄民となった。
     
    戦時中は、3名以上の集会は禁じられた。
    家族内にある日本語の書籍類はすべて処分させられた。
    ナチス・ドイツ潜水艦によって
    ベレン沖でブラジル商船が撃沈された。
     
    この事件により、ドイツの同盟国であった
    日本人への「反日感情」は高まり、
    ベレンの家や商店などの焼き討ちが多発した。
     
    ブラジル政府はこうしたことからトメアスーを
    「収容所」に指定して日本人を軟禁した。
    いわゆる、日本人移民の暗黒時代の始まりである。
     
    公式文献に残る第二次世界大戦中の
    トメアスの歴史についての記述である。
     
    だが、昨日(6日)、戦前移民で
    トメアスー総合農業協同組合の元理事であった
    沢田哲さん宅を訪問、インタビューの折、
    意外なトメアスーの戦中の姿が浮かび上がった。
    正史の裏話である。
     
    「確かに、オラーボ・コスタと言う人がトメアスーの警察署長時代
    (約8ヶ月間)は、地獄でした。
    でも、その人の代わりに就任した、ジョオン・エヴァンジェリスタと言う署長時代は天国ですよ!」
     
    親日家で我々を敵国人と思わないで、
    ブラジル人並みに扱ってくれましたしネ!
     
    終戦後も我々農民同志会の代表である高橋を
    重宝していろんな我々の要求を
    受け入れてくれました。
    この署長さんのおかげで、戦時中はフェスタ(ダンスパーーティー)も
    楽しめましたよ!地獄なんてもんじゃない、極楽でした!
     
    私は、戦争中は悲惨な生活を強いられた
    日本人であったと思い込んでいた。それは遺された文献を信じたからだ。
     
    歴史を掘り起こす仕事をしている今、
    幸せを感じた一瞬だった。
     
    掘り起こせば何かが隠されている。
    真実を求めてこつこつ取材しようと
    思わされた今回のインタビューでした!
     
     
     
    1/5/2009

    アマゾン日本人移民80周年を迎えて・・・!

      
     
    『初めにことありき・・・・・!』
     
    「1929年9月16日、日本人移民が最初にアマゾン河口の州都
    ベレン市に着いた。彼らは、ヨーロッパから銃と酒を
    持ってきたのとは異なり、
    斧と鋤を持ってきた。彼らは、我々と同じように森を焼いた。
    しかし、マンジョカ(キャサバ芋)を植えるのではなく、
    草の種を植えた。
     
    草の種は伸びたが、牛が食べるのではなかった。
    彼らは、しばしば我々と間違われるほど、似通っていた。
    彼らは、争いを好まず、3回目の雨季の後にも
    その土地に居続けた。
     
    彼らは、森を恐れなかった。
    暗くなった細い道を鋤を片手にトボトボと歩くことができた。
    彼らの名は、ジャポネース(日本人)と言った。」
     
    私は、この詩の作者をあえて知りたいとは思わない。
     
    「アマゾン」という大自然が、
    我々日本人移民を70数年間、
    見守って詠んでくれた詩であると信じたいからです。
     
    昨年、亡くなった坂口陞氏は、
    <熱帯森林農業>~トメアスーに於ける実例~
    なる講演原稿にこう記している。
     
    アグロフォレストリーの提唱者であり先駆者である
    坂口氏が遺した言葉である!
     
     
    11/2/2008

    トメアスー村の農業の変遷

     
    『トメアスーの農業面での移り変わり!』
     
    今、手がけている仕事の話です。
    トメアスー総合農業協同組合60年史の編纂。
     
    フォト欄にアップしたように、胡椒の単一栽培から
    混植栽培(森林農法)に変わり、
    トロピカルフルーツを主体にした加工品を製造し
    販売するまでになった。
     
    やっと、<希望の持てる>方法を編み出したのだ。
    それには、やはり、80年の植民地の年月と
    それに近い組合活動が必要だった。
     
    「トメアスーに大和種草を蒔いて80年!
    その険しかった80年の道程を経て漸く、
    <希望の持てる>アマゾンでの日々を獲得した。
     
    頼れる作物もなかった時代、胡椒に希望を託した時代、
    単一栽培から多角化栽培を模索した時代、
    混植栽培を主体にした試行錯誤の時代、
    胡椒栽培に未練を残しながらの営農。
     
    アップした写真で分かるように、試練は続いた。
    農産物に、付加価値を与えてより豊かになるという
    発想はまだ新しい。
    これこそがトメアスー村の
    <希望の持てる>生き方なのです。」
     
     
     
    10/17/2008

    懐かしい風景!

     
    『唐箕は今もなお現役!
     
    トメアスーに出張が多い昨今、
    ホテルからトメアスー農協への
    道すがら、懐かしいものを見つけた。
     
    日本人移民が持って来た<唐箕>である。
    穀物を主体にしていた時代や
    ピメンタの最盛期に欠かせない道具だった。
     
    日本人の手から離れていまでは、
    ブラジル人のピメンタ仲買商人には、
    必要欠くべからざる存在になっているのが
    件の<唐箕>である。
     
    日本では既に使われていないだろう!
    トメアスーでは、未だに現役で
    健在だ!
     
    この風景は、日本人には忘れられないものだ!
    一瞬立ち止まって、シャッターを切った。
    アップしたフォトがその唐箕です。
     
     
    9/2/2008

    第二次世界大戦中のアカラ植民地

     
    『敵国人として官憲や住民の重圧を受けた捕虜時代』
     
    1942年1月28日、対日国交断絶が宣されるや、
    北伯地方に住む日本人は、敵国人としての重圧を
    受けるに至り、アカラ植民地(現在のトメアスー)には、
    州警兵が派遣され、各日本人宅を家宅捜査し、
    日本文字の文書は殆ど没収された。
    3人以上の集合を禁じられ、日本語での会話は全て禁止。
    違反者は容赦なく投獄された。
     
    偶々、伯国商船がベレン沖でドイツの潜水艦に
    撃沈されたので俄然、ベレン市民は枢軸国人に対して
    悪感情をつのらせるに至り、同年8月18日、
    ベレン在住日本人は、全てブラジル人暴徒に襲撃され
    家屋は全て焼き打ちされた。
     
    コンパニア・ニッポニカ(南米拓株式会社)、
    アカラ産業組合(現トメアスー産業組合)の
    ベレン事務所もその被害を蒙り、
    日本人は着のみ着のままで、
    官憲保護の下にアカラ植民地の
    移民収容所に移された。
     
    アカラ植民地は、北伯在住枢軸国人の軟禁地となり、
    日本人、ドイツ人、イタリア人達が、
    ここに移送されて来た。
    日本人移住者が言い伝える
    『暗黒時代ー捕虜の日々』
    の始まりであった。
     
     
    8/25/2008

    トメアスーの歴史の背景に・・・・・!

     
    『トメアスー植民地の4代目(4世)、それは・・・・!』
     
    1933年ートメアスーへの移住者を引率する移住監督官
    臼井牧之助氏(女優小山明子さんのご尊父)は、
    引率の途中立ち寄ったシンガポールから、
    ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)の苗20本を購入。
    トメアスー植民地の農事試験場に持ち込んだ。
     
    1935年ー雇用農業者の引受人で在った南米拓殖株式会社は、
    破綻、撤退を余儀なくされた。
    直営試験場に植えられていた胡椒の苗、20本の
    うち2本が活着し30本になった。
    会社撤退に伴いその苗を
    植民地の篤農家で指導者の
    加藤友治氏と斉藤円治氏両名に15本づつ配布し
    管理を依頼した。
     
    その2本がアマゾン全域に広がり繁栄をもたらしたのだ。
     
    余談:
     
    トメアスー移民4代目は私の孫達<伸と祐>である。
    つまり、斉藤円治氏の玄孫(やしゃご)にあたる。
    斉藤氏の長女が、押切他男元トメアスー産組理事長と結婚。
    その長女マリアさんが高野氏と結婚。
    長男のクラウジオが私の娘と結婚した。
    直径ではないがその子供たちが4代目である。
     
    トメアスーの歴史を紐解くうちに、そんな事実を発見した。
    アマゾン日本人移民八〇周年祭にかかわり、
    図らずもトメアスー産組の<歩み>を編纂する仕事を、
    引き受けた。何か縁があっての仕事のようだ!
    せいぜい頑張りましょう!
     
     
     
    8/6/2008

    原爆の日

     
     
    【63回目の8月6日がやってきた・・・!
     
    8月6日、午前8時15分、
    その時刻を告げる鐘の音が鳴り始めた。
     
    1分間の黙祷を告げる鐘の音でもある。
    この鐘の音が響かなくなったとき、
     『日本が口をふさいだ時、
    世界の非核への動きは途絶える。』
     
    『 黙祷や 鐘の音沁みる 原爆忌  -秋風-』
     
     
     
     
     
    7/21/2008

    日伯の絆、アマゾン!

     
     
    『和と継承』
     
    来年のことを話すと鬼が笑うらしい!
    が、赤鬼さんには目を瞑っていただこう。
     
    2009年9月16日(水)は、
    アマゾン日本人移民八〇周年記念日だ。
    1929年に第1回移民が、
    トメアスー植民地(旧アカラ植民地)に、
    入植して80年になる
     
    日本の移住関係のお役人は、
    移民という言葉がお嫌いらしい。
    忌まわしい<過去の移民政策>を
    彷彿させる言葉だかららしい。
     
    ところが、送られた側、移民は意識して
    この「移民」の文字を使いたがる。
    忘れようとしても
    忘れることができないからだ。
     
    アマゾン移民の始まりである、
    この日をみんなで祝おうと
    その目的を
    『人の和と日本文化の継承』
    「日伯の絆、アマゾン!」
    とした。
     
    過去を思い浮かべながら、
    反省もし、未来に向けて
    新たな移民史を綴って生きましょう!
    次の世代に何を継承できるのか
    一世に課された責任は重い。
     
     
     
     
    6/8/2008

    移民00年 二つの祖国に生きる 最終回

     
    ニッケイ新聞2008年6月6日付け
    「ここにきてよかった」次世代に夢託す日系人
     
     四月三日、東京、池袋の街角。群馬県大泉町から立教大学の入学式に向う日系ブラジル人一家がいた。新調のスーツ姿の山川(やまかわ)ナタリアれい子さん(18)を父ファリア・ルイスさん(43)、母ケイコさん(44)が見つめる。「大学進学なんて夢のよう。それだけで日本にきてよかった」
     二世のケイコさんが非日系人の夫、五歳の娘と来日、工場で共働きを始めた一九九五年。「三年ほど働いてサンパウロで店でも開こうと考えていた」。一年後「子どもがぶらぶらしているのはよくない」と町立小に入れた一方、いつでも帰国できるようポルトガル語教室にも通わせた。
     
     小学校卒業時「ブラジルに戻ろう」と家族で話し合ったが、担任の「成績がいいからぜひ日本の中学に進学を」のひと言がきっかけで一家は日本に残る。ナタリアさんは、中学、高校に入学。そしてポルトガル語に近いスペイン語を学びたいと大学進学を希望した。学費を稼ごうと、ルイスさんは午前八時から午後十一時半まで自動車工場で残業を増やして働いた。ケイコさんは午前六時に起き三人分の弁当を用意、午前八時から午後五時までエアコン工場に勤務、娘を支え続けた。
     
     八十年代後半の“デカセギ”に始まり、二十年を経て現在は三十万人を超えた日本のブラジル人社会。さまざまな壁を克服して大学に進学する若者は着実に増えている。一方、満足な教育も受けられず、非行に走る青少年も少なくない。
     「コミュニティー全体が子どもの教育と真剣に向き合わなければ」。日本で割安の国際電話サービス会社「ブラステル」を創業、十年で年商九十億円、従業員二百三十五人に育てた日系二世の共同社長、田辺淳治(たなべ・じゅんじ)さん(47)と川合健司(かわい・けんじ)さん(50)は、三年前から不就学問題に取り組む特定非営利活動法人(NPO法人)への資金援助を始めた。「外国人労働者向けサービスで会社は大きくなった。恩返しをしなくては」と二人は話す。
     
     ケイコさんは娘の進学が働く意欲を支えたと振り返る。「ブラジルにいたときと逆に日本では自分をブラジル人と考えるようになった。いずれはブラジルに戻るが、なぜか日本語の勉強を始めた」。週末の夜、大泉町のディスコで趣味のブラジルのダンス「フォホー」を踊るケイコさんの顔に、二つの祖国に生きる充実感がみなぎった。(共同+平野雄吾、前橋支局)
                                         -終りー
     
     長い連載にお付き合いいただきまして有難うございます。
     日本人移民100周年を迎えて、二つの祖国に生きる日系人の姿を浮き彫りにしました。
     
     「日本人の顔はみんな同じに見える」。みんな同じような行動をしている。一つの規格にはまった生き方をしているように思えてならない。
     もっとそれぞれの個性を活かして、世界に飛び立ち、活躍できる個性を磨いて欲しい。
     原始林の多い未開発のアマゾンと未だに思われていることが、不思議でならない。
     そんな思いでこの連載を掲載しました。
     
     
    6/7/2008

    移民百年 二つの祖国に生きる 第8回

     
     ニッケイ新聞2008年6月5日付け
     
    『窓口の通訳、増強か廃止か 自治体で分かれる対応』
     
     来日十八年の日系二世、田村(たむら)エミリオさん(37)は自分が暮らす浜松市役所の変化に驚いている。「数年前は窓口で日本語を話しても、日系人というだけで『本当に分かっていますか』と不機嫌に聞き返された。今はポルトガル語で話しても丁寧に対応してくれる」
    人口約八十二万人の浜松市に住むブラジル人は全国市町村で最多の約二万人。
    入管法改正で三世までの日系人の定住、就労が認められた一九九〇年以前の百倍以上だ。
     静岡県の調査では、日系人の三分の二が日本語を「あまりできない」「まったくできない」状態で来日。工場やブラジル人コミュニティーで多くの時間を過ごし、日本語を学ぶ機会は少ない。一方でごみ分別のトラブルなど言葉が通じないことによる誤解も目立ってきた。
     
     市は九二年、浜松市国際交流センターにポルトガル語による相談窓口を開設、平日に働く工場労働者のために休日も対応した。二〇〇三年には納税課に通訳を配置し、市役所の計四課でポルトガル語の対応をしている。浜松市国際課は「外国から移住してきた方も市の経済や文化に貢献する大切な市民。よりよい生活をしてもらうために言葉のサービスをはじめ、市としてできることは援助したい」と話す。一方、四万二千の人口中、約四千九百人が日系ブラジル人の群馬県大泉町は〇六年、住民課の通訳を廃止した。本来の業務である外国人登録以外の相談が持ち込まれ、効率が悪いという理由だ。 
     
     町の担当者は「日本で暮らすためには日本語を話してほしいという思いもあり、窓口での通訳はやめた」と話す。現在は広報国際課と、町役場から離れた多文化共生コミュニティセンターに通訳員一人ずつ配置、平日だけの相談に応じている。
     来日前から日本語を学び通訳の経験もある田村さんは、浜松市の対応を評価するが「日本側に甘えてばかりではいけない。日本語を話せるようになり自立すべきだ」とも語る。「日本に住む日系人が増え、自分で話せないと、数に限りがある通訳では助けきれない」という危機感からだ。
     工場労働者が個人で日本語を学ぶ時間と費用を確保することは容易ではないという。田村さんは「外国人が自立できるよう国や企業の支援が必要だ」と訴えた。
                                        (共同=松本真由子、静岡支局)
     
     
    6/5/2008

    移民百年 二つの祖国に生きる 第7回

     
    ニッケイ新聞 2008年6月4日付け
     
    「ガイジンと付き合うな」いじめに悩む子どもたち
     
     「ガイジンと付き合うなと言っている」ー。出稼ぎの両親と七歳で来日した日系三世の鈴木ブルノ・エンヒケ君(17)が、群馬県内の公立小学校二年生に転入、覚え始めた日本語で同級生から聞いたのは、冷たい言葉だった。
     
     小学校の日本語教室で週に数時間勉強したが、クラスに戻ると授業についていけない。小六の時に日系のヒデユキ=仮名=が転入するまで一人の友達もなかった。同じ公立中に上がったヒデユキに「一緒に帰って」と頼まれ、並んで歩いていると日本人の同級生五人が石を投げてきた。上履きに画びょうを入れられたことも。担任にいじめを訴えたが「彼らはそんなことしてないと言っている」と突き放された。
     
     心配させたくない気持ちから親に相談できない。「あきらめるしかない」。しかしある日、気持ちが変った。「あきらめていては自分がだめになる」。親にいじめを打ち明け、中二で群馬県大泉町のブラジル学校「日伯学園」に転校した。「あのころは暗かったし夢なんかなかった。ポルトガル語を勉強するようになって、やっと前向きになれた」。小二クラスに入り、基礎から言葉を学んだ。「恥ずかしかったけれど孤独感はなかった」。みるみるポルトガル語を覚えた上、日本語も約二年間で検定一級に合格、周囲を驚かせた。「自分は日本とブラジル、両方の文化を持つ『日系人』と意識するようになった。両方の言語を習得し両国の人と話したい」と話す。
     
     ブルノ君は今、昼間は板金工場で働き、夜は高校資格を目指して学園に通う。帰宅は午後十時前。疲れ切り、復習もままならないが大学進学の夢を追い続ける。「将来は自分で起業して、多くの人たちのために働きたい」
     
     日伯学園は約二百十人の生徒のうち、約三割が公立校からの転入生。約百二十人が通う浜松市の南米系外国人学校ムンド・デ・アレグレでも約二割が公立校からの転校生で多くはいじめで心の傷を負っているという。
     
     子どもたちの悩みは深刻だ。小三の時「死ね」「キモイ」と言われ、殴られたという岐阜県美濃加茂市の公立中三の男子生徒は訴えた。「日本語がわからないブラジル人の苦労を分かってほしい。差別しないで。ぼくたちも同じ人間です」。
                                        (共同=松本真由子、静岡支局)
     
     
    6/4/2008

    移民百年 二つの祖国に生きる 第6回

    ニッケイ新聞 2008年6月3日付け
     
    夢を追ってひたすら仕事社会保険に入らず“綱渡り”
     
     群馬県大泉町の日系ブラジル人二世、畠山(はたけやま)アキオさん(35)=仮名=の一日は長い。午前7時に起床、夕方まで同県内の自動車関連工場に働く。帰宅後すぐに、昨年に町内に開店したブラジル料理店を切り盛り。30人ほど入る店は平日は午前零時ごろまで営業、後片付けをして就寝は午前二時を過ぎる。休日前は明け方まで店を閉めない。
     
     「新車を買うため」と軽い気持ちで来日したのが一九九二年。岡山県の古い一軒家で十五人の日系人らと共同生活し、工場でひたすら働いた。
     「豊かな国という想像とまったく違うし、ブラジルが恋しかった」。日本語もよく理解できずトラブルもたびたび。「それでもまじめに働き、日本語も勉強した。悪い誘いもあったが道を外さずにやってきた」と振り返る。
     
     日系人の妻(36)、長女(13)、長男(1)の四人家族。日本に永住するかは決めていないが「店を軌道に乗せて、子どもを大学に行かせてやりたい」と夢を描く。
     
     これまで大きなびょうきやけがはなかったが、以前勤めてた工場では、けがをした同僚が補償がないまま何人も解雇されるのを目の当たりのした。「家族のことを考えると社会保険はほしい」。雇用主の派遣会社に加入を要望したが、保険料で手取りが減るとして「君以外は入りたくないと言っている」と断られた。
     
     外務省の二〇〇六年度調査によると、在日ブラジル人は約四割が社会保険に加入していない。「違法状態がまかり通っている。何か起きたときにはとり返しがつかない“綱渡り”状態」と大泉町の社会保険労務士、小野修一(おの・しゅういち)さんは指摘する。
     四年前、小野さんの事務所に群馬県太田市の派遣会社から「ブラジル人が派遣先のプレスの事故で左手の指三本失った。保険に未加入でどうすれば言いか」と相談があった。会社は保険料をさかのぼって納めるより治療費や休業補償などの全額負担を選んだ。だが会社はその後、労働基準監督署に全従業員の保険加入を指導され、約二百人の保険料を負担できずに倒産したとという。
     
     畠山さんは「組合みたいなものがああればいいんだけど、波風を立てて解雇されるのは嫌だから」と話す。不安を抱えながら、仕事に打ち込む日々が続く。(共同=畠山卓也、前橋支局)
     
     
    6/3/2008

    移民百年 二つの祖国に生きる 第5回

    ニッケイ新聞 2008年5月31日付け

     

    移民百年二つの祖国に生きる=第5回=ものづくり立国支える主役=在日日系人、雇用に不安も

     

     来日十三年。後輩からは尊敬と親しみを込めて「先生」と呼ばれる。トヨタ自動車系の部品メーカー、アイシン精機(愛知県刈谷市)で働く日系ブラジル人二世の配川(はいかわ)ゴウキさん(50)。変速機の鋳造ラインで期間従業員として長年磨いた腕を認められ、昨年五月に正社員に昇格した。

     同社はトヨタグループで最大級の約千八百人の日系人を雇用。二年前から日系人の正社員化に取り組み、これまでに十七人を登用。高い技能を身に付け日本語も話せる配川さんのようなベテランは、職場の橋渡し役として貴重な存在だ。

     「働き始めたころは日本人と互いにあいさつもせず壁を感じた。今は日本人もポルトガル語を覚えてくれ、大きな家族のよう」という配川さんは、新人への技術指導や通訳、生活の相談役など一人で何役もこなす。

     製造業が集積、求人倍率が全国でも突出して高い東海地方には、ブラジル人をはじめとする日本国内の日系人約三十五万人の約半数が集中する。「もし彼らがいなくなれば、トヨタもソニーも生産ラインが止まってしまう」と関係者が口をそろえるように、いまや〝ものづくり立国〟の生産現場は日系人なしに成り立たない現状にある。

     一九九〇年に出稼ぎ労働が認められて以降、日系人は製造現場で重宝されてきた。だが主力が三世に移り「一世や二世のハングリー精神が失われ日本語も通じない。五十円でも高い時給を求めてすぐに仕事をやめてしまう」(岐阜県内の派遣業者)と厳しい声も。

     好調な輸出に支えられてきた東海地方の景気も、米国経済の失速で先行きに暗雲が漂い始めた。正社員になれる日系人はまだ少数。「本音では日本人を雇いたいが人手不足で仕方なく」(派遣会社)という企業の論理の下、派遣社員などとして働く日系人は「雇用の調整弁」として、景気が落ち込めば真っ先に首を切られる不安定な立場だ。

     中部地方の派遣業者でつくる中部アウトソーシング協同組合の市原淳宏(いちはら・あつひろ)専務理事は「この数年続いた人手不足にもかげりが見えてきた。出稼ぎでなく日本に定住する日系人も多くなっており、失業が増えれば社会問題を生み出しかねない」と懸念を漏らした。(共同=西川廉平、経済部〈執筆当時は名古屋支社経済部〉

     

    6/2/2008

    移民百年 二つの祖国に生きる 第4回

     

    ニッケイ新聞 2008年5月30日付け

     

    連載企画「移民百年二つの祖国に生きる」=第4回  〃マツリ〃に〃SOBA〃=主張するハイブリッド文化

     

     日本人移民がブラジルに持ち込んだ風俗や食などの文化は現地に溶け込み、独自の進化を遂げてきた。日系人のみならず、ブラジル人の間にも広く根付いた「日系のハイブリッド(混成)文化」は数多い。

     「ギザギザハートの子守唄」や「島唄」など日本のポップスを演奏する生バンドをバックに、ステージで若者らがスピード感のある踊りを披露する。会場を埋めた観衆も合わせて体を揺らす。普通のディスコと違うのは、ステージに和太鼓奏者が並んでいることと、所々に日本の盆踊りに似た振りが入ることだ。

     二〇〇二年ごろから、この「マツリダンス」を始めた南部ロンドリーナの文化福祉法人「グルポ・サンセイ」の日系三世の城間(しろま)ミリアン美知子(みちこ)代表(45)は「ブラジル人に、どうしたら日本の文化に興味を持ってもらえるかと考えたのがきっかけだった」と話す。

     〇三年に始まったロンドリーナ祭りで初披露され、市民も参加する恒例行事に。昨年の祭りでは毎晩約一万人が踊り、その約七割が非日系人だった。グルポ・サンセイは現在、他の地域にも出張して踊りを教え、マツリダンスの普及に努める。

     中西部カンポグランデでは、市内のアーケードで週末などに数十軒の「SOBA」屋が店を開く。日本そばではなく、ブラジル風に味付けを濃くし、肉をふんだんにのせた沖縄そばだ。テーブルでは地元の人たちがフォークとスプーンを使ってめんをすする。中にはストローを使って汁を吸う人も。

     日本人移民には沖縄県出身者が多い。戦後入植し、一九六〇年代後半に初めて沖縄そばを屋台で売り出した同県出身の勝連(かつれん)ひろしさん(81)は「最初は日本人相手。日本食を宣伝しようなどという気は全くなかった」と話す。しかし、すぐに人気が出て「SOBA」としてカンポグランデの郷土料理に生まれ変わった。

     市当局は二〇〇六年、そばを市の文化遺産に認定。同年から毎年八月に「SOBAフェスティバル」を開いている。

     サンパウロ州立大の森幸一(もり・こういち)教授(文化人類学)はブラジルで進化した日本文化について「ブラジル文化を豊かにするとともに、日系ブラジル人というハイブリッドな主体を主張する手段ともなっている」と話す。(ロンドリナ、カンポグランデ共同=小西大輔)